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2番館。2024年以降に映画館以外で見た作品の批評です。更新は下から上へと順次なされます。基本的に見た順序で書かれていますが書きたい作品があるとき時間が前後することはあります。藤村隆史 2024年7月20日。
評価 | 照明 | 短評 監督、スタッフ、鑑賞日、その他 | |
かくしごと 2024日 | 50 | 60 | 監督脚本関根光才 説明ゼリフばかり。まったく無駄なセリフ。映画が長くなる。 一見良さそうに見えるが子供の映画。 |
蛇の道 2024 | 69 | 78 | 監督黒沢清、脚本黒沢清、オーレリアン・フェレンツィ撮影アレクシ・カヴィルシーヌ、役者柴咲コウ、ダミアン・ボナール、マチュー・アマルリック、グレゴワール・コラン、スリマヌ・ダジ 98年版の哀川翔と香川照之は背後の見えない行動する人、不気味な表層、こちらの柴咲コウとダミアン・ボナールは背後の見える考える人、善良な深層、それが98年版のコメディとこちらのシリアスドラマの違いともなり、90分と110分の20分の違いを生み、内部性と外部性、「トウキョウソナタ」以前の黒沢清と以降の彼との違いになる。決して悪くはない、という言葉は果たして黒沢清に相応しいか。 ■西島秀俊はマクガフィンではない 西島は、柴咲がどこで生まれて、いつからどうしてフランスに来たか、家族構成は、そう質問して柴咲に答えさせた後、自殺し、悲しむ彼の母親を柴咲に慰めさせるために存在している。柴咲の人となり=背後を説明させるために存在している西島は運動を起動させるために存在するマクガフィンではなく柴咲の「説明責任」を果たすための心理的な存在として撮られている。 ■家族 98年版には無かった柴咲コウの夫、共犯者ダミアン・ボナールの妻、といった「背後」が撮られている。柴咲の夫は実に「ほんとうらしい」演技でパソコンの中を「背後」で埋め尽くし、ボナールの妻もまた実に話の分かる善良な人間として撮られている。その分、98年版にいた「九重佑三子に似ているからコメットさん」こと砂田薫のような「背後」をまったく見せようとしない謎の存在は消されている。 「背後」が常に付きまとう柴咲が終始「訳あり顏」をしながら人の指を切り落とそうとし、フランスの警官と英語で駐車違反のやりをしても善良な「背後」へと流れて恐怖とサスペンスが生じない。柴咲は「無表情」を貫こうとすることで「無表情」という外部の「表情」を真似ているのであり、98年版で「哀川翔」を演じた哀川翔とは異質の「訳あり顏」となって運動を停滞させている。 ■マチュー・アマルリックの死体をナイフを逆手に握って突き刺す時の柴咲の顔は憎しみに満ち溢れているが、それは見ている者を「恐怖させる」のではなく彼女も人間なのだと「共感させる」のであり98年版には撮られていない「背後」の描写である。 ■倉庫 何かが少しずつ満たされて来ると映画は余った時間と金を外部の描写に使うようになる。ここで監禁に使われている倉庫は白い壁に塗られて「要塞」さながらの密閉性を確保して監禁場所としての「らしさ」を備えている。哀川翔が銃をぶっ放し『この部屋は防音になってる、いくらわめいても聞こえない!』、と叫んだ映画の内部は失われている。 ■納得の職業 柴咲コウの職業がセラピーであるという事実は見ている者を納得させる。 ■ピント送り おそらく10回前後、見てわかるピント送りがなされている。特に、縦の構図で手前と奥に人物が配置されている時、奥の人物が話し出すと奥の人物へ、手前の人物が話し出すと手前の人物へピント送りしているシーンが何度か撮られているが、このような機械オンリーの力に頼った構図の転換はただひたすら心理的であるばかりか、ただでさえ会話に従属した切り返しが「同じ写真」として言語に従属すること以上に機械による言語への従属を惹き起こす実に平凡な心理的画面を提示することになる。 ■リメイク 「リメイク」する時、ジョン・フォードであれ(「プリースト判事(JUDGE PRIEST)」(1934)→「太陽は光り輝く(THE SUN SHINES BRIGHT)」(1953)、マイケル・マンであれ(「メイド・イン・L.A.( MADE IN L.A.)」(1989)→「ヒート(HEAT)」(1995)、「常習性」を強めて「リメイク」しているが黒沢清は「常習性」を弱めて「リメイク」している。 |
蛇の道 1998 | 94 | 84 | 監督黒沢清、脚本高橋洋、撮影田村正毅、役者哀川翔、香川照之、下元史朗、柳ユーレイ、翁華栄、砂田薫(コメットさん)、丹治匠(コメットさんの弟)、佐藤加奈(塾の生徒) 行動が先に来てあとから来る物語が行動に追いつけない。活劇でありコメディでもある。ミステリーではない、誰が犯人かを明らかにするのはモーションピクチャーの仕事ではない。 ■モナカ 役者、ロングショット、持続する時間、「はしっこ」を撮らない「最中(モナカ)」の映画が心理の入り込む余地を無化させている。 ■香川照之 香川照之は極めて「常習性」の高い「常習犯」としてその「背後」を忘却している。予備校の帰り道にふと振り向いて自転車置き場に立っている塾の少女(佐藤加奈)を見つめる香川の笑顔は「私、なにもおぼえていません」という顏であり、そこには「見知らぬ乗客(STRANGERS ON A TRAIN)」(1951)のロバート・ウォーカーさながらの不気味な日常性が露呈している。 ■映画のルール 下元史朗を監禁した後、哀川翔が拳銃を一発ぶっぱなし『この部屋は防音になってる、いくらわめいても聞こえない!』、、と、、どう見ても防音装置などあるわけがない古びたガラス窓と普通のドアに囲まれた薄汚れた倉庫であったとしても、主人公が『防音になっている』と断言した瞬間、最新の防音装置を備えた「要塞」へと化すのであり、それはあたかも撃たれた知人を介抱している者が首を振った瞬間知人は必ず死ぬのと同じように映画が「内部」へと流れる瞬間であり、コメディであり、ジャンル映画である。 ■異化効果 哀川翔が予備校の数学講師であるという事実にブレヒトも驚きの異化効果を発揮させている。 ■塾の黒板集結事件 そもそもあれが数学を教えている塾だという確証はどこにもないのだが、哀川翔が出題した問題に少女が黒板で解答を書いてゆくと続々と生徒たちが黒板へ集まって来てその解答をノートに書き留めてゆく、特に最初に小走りで黒板へ接近して行くあの白いシャツのサラリーマン風の中年の男が「これはもしや、」と、いう顏でキャメラの横を通り過ぎてゆき、するとそれにおびき寄せられたかのようにほかの生徒たちもまた「何かが起きている」という顏で黒板へ集結してゆくのだが、このシーンには何も起きていない。まったくたくなんの意味もないのである。映画史においてこれほどばかばかしいシーンはそうそうお目にかかれるものではないのだが、結局のところこの「塾」はあの少女と香川照之を夜のアーケード街や公園の地面で交錯させるためのマクガフィンであり、マクガフィンに意味はない、その意味のないマクガフィンたる「塾」の中身を撮ったのがこの「塾の黒板集結事件」であり、本質が無意味なのだからそれを求める者たちの顔は「ほんとうらしく」なるはずがなく、あの白いシャツの男のようにどこかで自己撞着的なとぼけた顔になって吸い寄せられるしかない。 ■ジャンル映画 フレッド・アステアは何故踊るのか、それを説明しないからこそミュージカルはジャンル映画でありこの作品もまたジャンル映画として撮られている。 ■照明 車に乗っているコメットさん(砂田薫)の弟が携帯で電話をしている時、横に座っているコメットさんの顔におそらくこの映画で最高の光がペタッと当たっている。この光は物語とは何の関係もない。黒沢映画の洞口依子には意味もなく最高の照明が当てられていることがよくあるが一切の説明を拒絶した光ほど美しいものはない。 |
オアシス 2002韓 | 30 | 60 | 監督イ・チャンドン撮影チェ・ヨンテク リアルを勘違いしたアホなインテリが反応しそうな細部に満ち溢れている。 |
カラーパープル2023 | 28 | 28 | 監督ブリッツ・バザウーレ撮影ダン・ローストセン 映画はここまで退化しました。 |
僕らの世界が交わるまで 2022 米 |
40 | 40 | 監督ジェシー・アイゼンバーグ撮影ベンジャミン・ローブ A24提供 演じている時に映画の撮り方をイメージしている役者(イーストウッド、北野武)人もいれば、そうでない人もいる。 |
コットンテール 2023 英・日 |
30 | 40 | 監督パトリック・ディキンソン撮影マーク・ウルフ役者リリー・フランキー、木村多江、恒松祐里 ステレオタイプの演技。うまい演技。その瞬間、それが限界となることを知らない。 やっているのは演技ではなく演技のものまね。 映画の墓場。 |
ありふれた教室 DAS LEHRERZIMMER 2023ドイツ |
86 | 86 | 監督イルケル・チャタク撮影ユーディット・カウフマン俳優レオニー・ベネシュ 学校の教師が同僚の教師を盗難で問い詰めたところが思わぬ事態へ発展する。 ベストテン。 盗難を告発する時の手続きが少々乱暴であったことから果てしないサスペンスを紡いでゆく。手続きを誤ると善悪が度外視されサスペンスが産まれる。モーションピクチャーのお手本のような物語。 キャメラを動かし続けているのに照明は悪くない。輪郭にぴしゃりと当たっている。 原題は「DAS LEHRERZIMMER(職員室)」 ワイズマン映画みたいな題名だが、キャメラの動きとカットの仕方が不思議でワイズマンを想起しているとワイズマン映画に不可欠な「掃除夫」が出てきたりしている。撮り方はまったく違うがひょっとしてという気にもさせてくれる。 |
パスト ライブス/再会 2023 米・韓 |
50 | 50 | 監督セリーヌ・ソン撮影シャビアー・カークナー 目を凝らし耳をそばだてればその映画が内部を目指しているか外部へ逃げているかが見え聞こえるようになる。 外部を志向している限りどんな才能に恵まれようとこのレヴェルを超え出ることはできない。 |
シチリア・サマー 2022伊 |
60 | 60 | 監督ジュゼッペ・フィオレッロ 物語映画として楽しめる。 私は楽しめないが。 カットが割れて次のカットに至る時に凡庸さが出現する。 |
サウルの息子 2015 ハンガリー |
50 | 70 | 監督ネメシュ・ラースロー 外部の真実は内部の真実へと直結しない。映画は残酷だ。 |
アメリカン・ドリーマー 理想の代償 A MOST VIOLENT YEAR) (2014) |
86 | 86 | 監督J・C・チャンダー撮影ブラッドフォード・ヤング俳優オスカー・アイザック、ジェシカ・チャステイン ベストテン入り。 HDDに以前録画したものを思い出して見てみたが、物語映画にしてこの配光は贅沢すぎると鑑賞後キャメラマンを調べてみるとブラッドフォード・ヤング、デヴィッド・ロウリー「セインツ-約束の果て-(AIN'T THEM BODIES SAINTS)」(2013)のキャメラマンだった。どうりでね、と唸るしかない。 J・C・チャンダーは「マージン・コール(MARGIN CALL)」( 2011)も良かったが、物語映画をこれだけのレヴェルで撮ることのできる力はただ事ではない。画面が凝縮し濃密で弛緩しない。物語が「あと」から心地よく流れて来る。 オスカー・アイザックはアル・パチーノへの並々ならぬ尊敬をその演技の節々に露呈させているが、メリル・ストリーブのように映画を壊すわけでもなく、また映画の外部へ逃避することもない。 |
さよなら、人類(2014スウェーデンほか | 40 | 40 | 監督ロイ・アンダーソン ベネツィア金獅子賞 これはコメディではなくサスペンスでもない。モーションピクチャーとは限りなく無関係な何かだ。 |
枯れ葉 KUOLLEET LEHDET 2023 |
100 | 100 | 監督脚本アキ・カウリスマキ撮影ティモ・サルミネン出演アルマ・ポウスティ、ユッシ・ヴァタネン ■ジャンル メロドラマを装うサスペンスコメディ ■言葉 赤と緑のローカールームで彼女(アルマ・ポウスティ)が同僚の「また明日」という挨拶に無言で微笑んだ時、これは口のきけない女の物語に違いないと確信したのだが、彼女の口にする僅か数えるほどの言葉が話すことを禁じられた者の物語として露呈している。 ■「裏窓(Rear Window)」(1954) それにしても、このユッシ・ヴァタネンという男優は、横から見ればスティーヴ・マックィーン、縦から見ればジェームズ・スチュワートという恵まれた風貌を身に着けた者であり、彼が終盤、オフの空間の「音だけ」で路面電車に轢かれて骨折し、左足にギブスをして出て来た時、明らかにこれは「裏窓」のジェームズ・スチュワート以外の何者でもあるはずはなく、しかしそれが「裏窓」といモーションピクチャーを以前に見たことという過去へと遡ることなく現在を貫いているのは、左足にギブスをつけるために彼は電車に轢かれ、そのために彼は女と出会ったのではあるまいかという心地いいマクガフィンが運動をその都度現在へと遡らせているからである。 ■チャップリン バス停で眠っている男の体に女の乗っている路面電車の影が通り過ぎた時、おそらくそこにはチャップリンへのさり気ない思いが通過していると感じられるのだが(「巴里の女性(A WOMAN OF PARIS)」(1923)で序盤、通過する汽車の影がエドナ・パーヴィアンスの体に投射される)、このシーンにしても男の体にバスの影を投射させるために男はバス停に酔いつぶれているののではないか、ひょっとするとこの男はそのためにアル中なのではないか、当然ながら突然現れたあの犬にしても、ラストシーンで『チャップリン』という名前で呼ばれるために存在するのではないかと、次から次へと逆流してゆくマクガフィンの連鎖がこの作品の現在性を露呈させているのであり、それはあたかもD・W・グリフィスの短編の救出劇で、父親が遠くから助けに向かうクロス・カッティングを撮るために父親を外出させるような心地よいモーションピクチャーの感触を呼び覚ましている。マクガフィンは画面を物語に従属させずに物語を語りしめることを可能にさせる映画史における最高の贈り物である。 ■路面電車のウインカー 男の体に影を投射し、のちにあの男を轢くことになるのであろうあの路面電車に女が乗り込む時、点滅するオレンジのウインカーが彼女を照らす主たる光源とされているように、ウインカーはウインカーではなく「ういんかー」という別の物体へと転化されている。 ■内側からの切り返し バイト先の社長が麻薬密売でパトカーに乗せられるとき、それを見ている者たちとのあいだで内側から切り返され続け、決して同一画面に収めらることなくそのまま終わっているように、すべての切り返しが内側からなされているこの作品はひとつひとつのショットを「そのひと」として撮るためにあらゆる意匠が施されており、初めての2人のディナーにおける窓の汚れ方ひとつにしてもその窓は「そのまど」として撮られていて、あらゆる空ショットがまるで玩具の中の切り取られた空間のように「くうかん」として露呈しているからこそこの映画は現在を現している。「裏窓」を知らず「巴里の女性」を見ておらずゴダールなど聞いたことすらないとしても現在はおしなべて見る者に開かれている。 ■映画を肌で生きる強さがない限りこのようなモーションピクチャーを撮ることはできない。 ■成瀬己喜男 見られていることを知らない者を盗み見ている者がふと相手の視線と絡んでしまった時に慌てて目を伏せる盗み見の視線の数々が2人の出会いのカラオケバーで何度も取り交わされ、明らかに画面の外には誰もいないにもかかわらず視線だけを動かし画面の外の人物の動きを仮構する成瀬目線が幾度も繰り返して撮られているこの作品は、視線と切り返しによってなされるメロドラマを装いながら、決して善悪も過去も想い出も撮られることなく現在を疾走するサスペンスコメディであることが、モーションピクチャーはこれから先も生きながらえてゆくであろう希望を確かに刻んでいる。 |
親密さ 2012日本 | 20 | 60 | 濱口竜介 スノッブの深層に共感を呼ぶだけの紋切型。 表層の驚きはどこにもない。 |
ジャンヌ・デュ・バリー国王最期の愛人 (2023仏ほか |
30 | 4 | 監督マイウェン 映画ではないので批評もできない。 光がどこにも見当たらない。 |
理想郷(2022スペイン。フランス | 60 | 67 | 監督ロドリゴ・ソロゴイェン ゴヤ賞9部門受賞にしては悪くない。平凡な物語映画だが。 |
ファイブ・ナイツ・アット・フレディーズ(2023米 | 50 | 74 | 監督エマ・タミ 典型的な凡庸さに埋没している。ひどくはないがそれ以上でもない。われわれの俗世界の感覚で映画を撮っている。 |
梟ーフクロウー 2022韓 | 15 | 60 | これは映画ではないね、、。程度が低さが次元を超えてる。 |
雪の轍(KIS UYKUSU 2014トルコ他) | 88 | 90 | 監督ヌリ・ビルゲ・ジェイラン撮影ゲクハン・ティリヤキ俳優ハルク・ビルギナー、メリッサ・スーゼン ベストテン入り。 些細な出来事がサスペンスを生み出しコメディとなる。モーションピクチャーとはコメディ・サスペンスである。 あの元役者の夫がどうして妻とうまくいかないのか。すべては過程に埋没しながら人間の関係はあらゆる瞬間の「見ること」に委ねられている。 作家の書斎で作家と妹が延々と議論している。モーションピクチャーとはそれだけで撮れるという確信がなければこの時空を撮ることはできない。この作品が3時間を超えるのもそうした傾向に依っている。机に向かっている作家とその後ろのソファーに横たわっている妹のランプシェードに包まれた空間はこれからサスペンスが始まることを予告している。 ここで演じている者たちのリアルとは「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書(THE POST)」(2017)のメリル・ストリーブ演じる、さきから来る「リアル」ではなくあとから来るリアルであり、一見同じようでまったく異質である。前者は過去の反復であり後者は現在の活路である。 終盤やや因果が強いか。 |
父は憶えている(2022キルギス) | 30 | 30 | 監督アクタン・アリム・クバト お話しにならない。 |
蟻の王(2022伊) | 50 | 60 | 監督ジャンニ・アメリオ ショットの不在。ぜんぜんだめ。 |
メリー・ウィドー(THE MERRY WIDOW)(1925) | 100 | 100 | 監督エリッヒ・フォン・シュトロハイムErich von Stroheim撮影俳優メエ・マレー、ジョン・ギルバート、ロイ・ダーシー、ジョン・クロフォード、タリー・マーシャル YouTubeで見られる。 『分断』の傾向が極めて強く殆どの内側からの切り返しが別々に撮られている。その結果イマジナリーラインも確信犯的にずれている。内側からの切り返しを俳優の正面から撮りその結果必然的に切り返しは別々に撮られることになり、また切り返されて撮られるメエ・マレーのクローズアップの多くは照明を修正して強烈なバックライトを浴びせて撮られていることから時間も金がかかる。シュトロハイムがユニヴァーサル、MGM等をクビになった理由として役者の下着までも「本物」を付けさせた等と言われるが、もっと本質的な「ハリウッド映画として許されない撮り方」をシュトロハイムがしていたのであり、その一つとして「1ショットに時間と金をかけすぎる」という『分断』の傾向を見出すことができる。ドライヤーに似ているこの撮り方がハリウッドで許されるわけがない。 |
水は海に向かって流れる(2022日) | 70 | 84 | 監督前田哲、撮影池田直矢、脚本大島里美、原作田島列島、俳優広瀬すず 物語映画のお手本のような撮り方でこれのできる「若手」が日本には育って来ない。監督志望の駆け出しの若手(濱口竜介など)はまず前田哲の助監督あたりから始めるのもいいだろう。画面の肌触りもいい。空ショットもいい。女優の撮り方がいい。ショットサイズと切り返しと音声と場所と編集でコメディを撮っている。 セリフが途方もなく理屈っぽい。原作との関係をこなせていない。説明ゼリフをこれでもかと繰り返し既に撮られているモーションをその都度自己否定する。成瀬が見たら脚本は真っ赤になる。客をバカだと思っていない限りこんな程度の低い脚本はありえない。 広瀬すずのクールな役柄に無理がある(無理をしている)。 シネコンに乗せることを前提として撮られた映画はリミッター(映画とは何の関係もない要請から来るチカラ)に押し戻される。 |
美と殺戮のすべて(2022米) | 30 | 50 | 監督ローラ・ポイトラス撮影ナン・ゴールディン ベネツィア金獅子賞 外部の力を借りて撮られた『ドキュメンタリー』のひとつ。か弱い人間の知性を満たすのみでモーションピクチャーとして無価値。 |
熊は、いない(2022イラン) | 84 | 84 | 監督脚本製作出演ジャファル・パナヒ撮影アミン・ジャファリ ベストテンへ。 出国禁止の監督自身が出演しイランの国境沿いの村で国境を越えたチームの撮影をパソコンから指示して撮るというお話しだが、監督自身の境遇と映画内映画と映画の物語とが混合して嘘とほんとうのあいだをさまよっている。できることだけを与えられた題材で撮れば映画になるというキアロスタミの継承が、固定したキャメラによる切り返しと主観ショットのみによって撮られる心地よいフィルムの感覚を想起させている。石造りの田舎のあばら家の上はベージュ、下は水色に塗られた壁に赤を添えた意図的な美術空間がいかにも作為による演出を醸し出しながら決して外部へは逃避しない倫理をあらゆる瞬間において貫いている。 悲惨な結末のようでありながらひとつのコメディとして成立している。 キャメラマンは「白い牛のバラッド」( 2020イラン・フランス ベタシュ・サナイハ・マリヤム・モガッダム)のアミン・ジャファリ。必然の出来事として彼はそこにいる。 |
人間の境界(2023・ポーランドほか) | 50 | 50 | 監督アグニェシュカ・ホランド撮影トマシュ・ナウミュク 俗っぽさの典型。外部の領域で駆り立てる。観客の善意に期待している。「ショット」の不在。才能の不在。 |
ドクターデスの遺産(2020) | 監督深川栄洋、撮影藤石修、俳優綾野剛、北川景子 映画が始まってすぐ、綾野剛が子供とオセロするシーンで綾野剛が子供を手前にして撮られ、外側から切り返され、再び外側から切り返される。この時点でアウト、こんなだらしのないショットとカットで映画を始める無神経なシロモノをこれ以上見ろというのは無理な相談。 |
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ミステリと言う勿れ(2023日) | 20 | 50 | 監督松山博昭、撮影斑目重友、俳優菅田将暉 視点がない。 例えば序盤の蒲団の敷いてある日本間。ここの天井から下がっているライトは明るいだけで光源としてまったく無意味。旅館の照明もしかり。 外からの光を飛ばし過ぎてもいる。 子供の撮った子供による子供のための映画。 |
エリザベート1878(2022) | 監督マリー・クロイツァー 「ショット」を知らないバカが撮るとここまでグロテスクになる。こういうバカに映画を撮らせるバカの顔が見たい。 |
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キャロル・オブ・ザ・ベル(2021・ウクライナ・ポーランド) | 30 | 68 | 監督オレシャ・モルグネツ=イサイェンコ 映画開始後、クレジットが終わって女の子が窓枠から降りて「来た」、、と言うシーン。これを見ただけでこの映画には「ショット」を撮る意志がない。その後見続けたところで思いきり俗っぽさをさらけ出して終わるしかない。 |
ヴィレッジ(2023日) | 30 | 30 | 監督脚本藤井道人、撮影川上智之 最初の浄瑠璃の撮り方のだらしなさは怒りすら湧いて来る。 バスから降りた女がかばんを押しながら一本道を歩いてゆくその時、キャメラがパン・アップして煙を吐いている山の工場みたいなのを映し出す、こういうのがまったくだめなのを知らない。すぐにエスタブリッシング・ショットで物語を撮ってしまう。侯孝賢とかなら絶対に撮らない。 1つ1つのショットを実にいい加減に撮る習性が身に染みついている。 一発屋。見た中では「悪魔」だけがモーションピクチャー。 |
罪の声(2020日) | 30 | 50 | 監督土井裕泰、撮影山本英夫 映画が始まってすぐアイロンをかけている星野源の横からのクローズアップ。こういうのがだめなのだが本人は分かってないらしい。それ以外のクローズアップもまったくだめ。話にならない。人間が物語にただひたすら利用されている。 切り返しが内側も外側もまったくだめ。なってない。テレビみたいな撮り方。 キャメラがあまりにも無駄に動きすぎる。 |
ほかげ(2023日) | 40 | 70 | 監督撮影脚本塚本晋也 新しさも珍しさもなくただ端的に映画の勘違い。心理的。外部へ大きくかかっている。 「ショット」が存在しない。余りにも古い。 |
「童年往事/時の流れ(童年往事THE TIME TO LOVE AND THE TIME TO DIE)」(1985) | 100 | 100 | 監督脚本ホウ・シャオシェン脚本チュー・ティエンウェン撮影リー・ピンピン俳優ユー・アンシュン(アハ)、ティエン・フォン・父親。シン・シューフェン(好きだった女学生)、メイ・ファン・母親、タン・ルーユン・祖母 2024年8月11日鑑賞、2回目か3回目。 原題が『童年往事THE TIME TO LOVE AND THE TIME TO DIE)』。 ダグラス・サーク「愛する時と死するとき」(1957)の原題が「A TIME TO LOVE AND A TIME TO DIE)」。 139分「ショット」が持続する途方もないモーションピクチャー。 マクガフィンによって逆因果関係で起動する映画ではない。もっとゆるやかで断片的なエピソードの順撮り。停電になって電気がつくと父親が死んでいた、というのがもっとも強いマクガフィンで撮られたシーンであるが(停電は父親が死ぬため)、母親の病気の場合、突然舌にできものが出来て病院へ行ったら癌だった、という流れの中にマクガフィンを見出すことはできない。「家族の波紋(archipelago)」(2010英 ジョアンナ・ホッグ)よりももっと平坦でマクガフィン性が希薄である。出来事をマクガフィンによって起動させるのではなく起動させる出来事を撮らない、という撮り方。他の少年たちとの抗争の場合、そのきっかけとなった喧嘩のシーンは撮られておらずその喧嘩の報告によって抗争が起動している。それによってどちらが悪かったのかという善悪が無化され運動が透明になる。 エスタブリッシング・ショットを撮らない。家の中の切り返しは小津映画のようにほとんど『分断』されていて間取りを把握するのに困難をきたす。 母親の葬式で少年が泣くシーン、これは普通なら撮らなくてよいショットだがこれを撮らないことはありえないという映画が撮られている。 |
告発の先に(20222仏) | 18 | 40 | 監督脚本イヴァン・アタル 映画が始まって空港のあとソファーで膝を組んだ女が男と話している。この時点でこの映画はおわり。見る価値はなく、見続けたところでバカでも撮れる勘違い画面が続いてゆくだけだ。才能を欠くだけではなく撮っている人間の性質までグロテスクに露呈している。映画はこわい。 |
「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」(2022) | 18 | 50 | 監督ダニエル・クワン・ダニエル・シャイナート 映画は自由であり自分は新しいことに日々チャレンジしている、という完全なバカが撮ったものであり、それ自体珍しくもない日常的な出来事なのでさして驚くには値せず、これに賞を差し上げるバカがいるとしても、野球ならキャッチボールのできない野球選手レヴェルの批評家のやることに驚くこともない。 フィルムは回収して再利用したらいい。 |
「ローマ環状線、めぐりゆく人生たち(SACRO GRA)」(2013伊・仏) | 83 | 88 | 監督撮影ジャンフランコ・ロージ。ベネツィア映画祭でドキュメンタリー映画として初の金獅子賞とのこと。 ベストテン入り。 ドキュメンタリー映画として紹介される映画の9割以上はドキュメンタリーテレビであって映画ではなく、物語を順番につなげただけのショット無きシロモノに過ぎない。 我々の現実の空間が常に光と色に満たされているわけなどない。だが光、家具、服、色などが満たされたこの作品はそれらを作為によって調整しながら撮っているとしか見えないのであり、そう見えること自体がドキュメンタリー映画であることの証である。 救急隊員が夜、帰ってきた自宅は、隊員の着ているオレンジの制服に歩調を合わせるようにキッチンの収納戸棚がすべてオレンジに配色されていて、まさかこの独り暮らしのおやじにこのような色彩感覚があるわけがない、これはスタッフがあとから貼り付けたんだ、、いや、、もしかすると本当に最初からこんな部屋だったのかも、、、というような、嘘か本当がわからなくなる感覚がもたらされたとき、それがドキュメンタリー映画のリアリズムであり、「見ること」によってのみもたらされるモーションピクチャーの瞬間である。 |
九龍猟奇殺人事件(踏血尋梅)(2015香港・フィリップ・ユン・未公開) | 84 | 88 | 監督脚本フィリップ・ユン撮影クリストファー・ドイル俳優ジェシー・リー、アーロン・クォック 3回目。 批評あり 遺体から内臓を取り出すシーンなどが撮られているのでこういうシーンがだめという人は裁判シーンは飛ばして見るのも映画の味方として間違っていない。映画は断片的な出来事であり、特にこの作品は現在と過去とが断片によって集積化しているのでどこから見てもモーションピクチャーを見ることになる。 赤い髪のチンピラを刑事たちが発見するシーン。手提げ袋を左手に持った女刑事が八百屋の前で身構えるショットはほんの0コンマ何秒でありながらモンタージュとして露呈している。否、0コンマ何秒であるからこそモンタージュとして露呈する。 猟奇殺人は主人公のジェシー・リーの現在を撮るためのマクガフィンであり、だからこそマクガフィンは猟奇となってその強度を増してゆく。 刑事が泣くあたりから画面が弱まって来る。 |
青の帰り道(2019) | 50 | 70 | 監督脚本藤井道人、撮影石塚将巳、俳優真野恵里菜、清水くるみ、横浜流星 『なんだよこの善良さは気持ち悪い!』と、夜の公園でギターで歌い始めるあたりで吐き棄てるように口から出てしまったのだが、人間観察が子供。「新聞記者」ほどひどくはないにしても、どこにでも存在する凡庸な中の一本であることに変わりはない。 アイドルの宣伝ビデオみたい。映画を基本的に勘違いしている。 |
新聞記者(2019) | 30 | 70 | 監督脚本藤井道人、撮影今村圭佑、俳優シム・ウンギョン、 「悪魔」は良かっが、これは世界に掃いて捨てるほど存在する中の一本に過ぎない。 自分のできないことは決して撮らない「殺人捜査線(THE LINEUP)」(1958)と自分のできないことを出来ていると勘違いして実行している「新聞記者」とはその映画的才能において修復不可能な溝がある。 作家主義が今では通用しないことの証明にはなる。 |
「殺人捜査線(THE LINEUP)」(1958) | 90 | 88 | 監督ドン・シーゲル撮影ハル・モーア脚本スターリング・シリファント役者イーライ・ウォラック、ロバート・キース、リチャード・ジャッケル、 3回目。 映画が始まってからポーターが盗んだかばんをタクシーの窓から投げ入れ逃走するタクシーのカッティングのスピードがまさに活劇そのもの。早すぎて見えない、のではなく、見えるショットがスピード違反で連鎖してゆく。俺たちには時間がない、とばかりの86分まったく無駄のないショットが一瞬の弛緩も許すことなく持続してそのまま終わる。 2度の落下シーンは思わず笑ってしまうくらい見事に撮られている。拉致した子供に対しても一切の罪の意識も同情も排した前科6犯的常習犯のB級活劇そのもの。 自分にできないことを一切やらず出来ることだけを撮り続けている。 |
「神の道化師、フランチェスコ(FRANCESCO, GIVLLARE di Dio)」(1950) | 80 | 80 | 監督脚本ロベルト・ロッセリーニ脚本フェデリコ・フェリーニ撮影オテッロ・マルテッリ俳優 素人俳優を使っている 二番館2006~7では95となっている。撮られ方は随分と荒っぽい。一つ一つのショットの力が少しずつ弱い。 『古典的デクパージュ的人物配置』からの外側からの切り返しもそれなりに撮られている。外側からの切り返しと古典的デクパージュとの関係については今後の論文に書くつもりでいる。 途中から入信してきたちっとも「成長」しない頑固なじいさんがシロウト特有の味を出している。 |
「この土地は私のもの(THE LAND IS MINE)」(1942) DVD題「自由への闘い」 |
50 | 70 | 監督製作脚本ジャン・ルノワール製作ダドリー・ニコルズ脚本ダドリー・ニコルズ撮影フランク・レッドマン美術ウージェーヌ・ルーリエほか俳優チャールズ・ロートン、モーリン・オハラ、ジョージ・サンダース、ヴァルター・シュレザーク、ケント・スミス、ウナ・オコナー 二番館2007年度版で100を付けているが年月を重ねて見直し50に変更。 序盤から中盤までは、通りの地面のセットの余りのすべすべ感に戸惑ったりはするものの「ミカエル(Michael)」(1924)のヴァルター・シュレザークが出て来て驚いたり、ロートンの教室でふざけて紙飛行機を飛ばしているように見える子供たちのその紙飛行機がドイツ軍によって禁書にされたページを破って作られた「抵抗」であったと「あと」から分かったりする脚本に、流石ルノワールとダドリー・ニコルズの共同脚本だと感動したりしていたのだが、ジョージ・サンダースが出て来たあたりから少しずつ怪しくなる。 チャールズ・ロートンは監督としては「狩人の夜」(1955)という凄いのを撮っているが役者としては映画を壊す傾向を甚だ身につけている。法廷へと移行した当たりで既に運動は弱まっているが、法廷でのロートンの「演説」は善悪の分節化されたメロドラマそのものであり、それを傍聴人席で見ているモーリン・オハラの「あなたは正しいひとです」といった感じの感傷的クローズアップが入り、これはホークス「ヒット・パレード」(1947)で指摘した「うまい歌」の範疇に入る「善悪の顔」そのものなのだが、その後の教室での子供たちの顔もルノワールとは信じられない善悪の顔が撮られていて、そこにモーリン・オハラがチャールズ・ロートンに抱きついてキスするに及んで映画は壊れた。ヒッチコック的であったりジョン・フォード的であったりするシーンが撮られていたりするのだが法廷によって映画は一気にしぼんでいく。ヒッチコック論文で検討したように、法廷は危険な空間でありその判決文をオフからの「声だけ」によって聞かせるくらいで十分であり、正面から撮るとまず間違いなく映画は壊れる。 当時の私は「ルノワールならすべて褒める」という作家主義的なか弱い傾向を有していたのかもしれない。今後も以前の批評で書いたことが間違っていると確信したならばこの二番館あたりで修正してみたい。 |
「ドミノ(HYPNOTIC)」(2023) | 60 | 80 | 監督撮影ロバート・ロドリゲス撮影パブロ・ベロン俳優ベン・アフレック 照明は悪くなく心理的クローズアップが入るわけでもなく、最初の回想がしつこいものの、リズムもよい。どうしてつまらないんだろう、と考えながら見ていたのだが、、催眠術という出来事がモーションピクチャーには合っていない。物語が画面を追い越している。催眠術をかけられた人間は起源を忘れて「常習犯」になったとしてもその行動には常に「かけられた理由」が伴うことから運動が規定化されて弾けない。ということは、催眠術をかけるシーンを撮らない、かける理由を撮らない、かける人間そのものを撮らず謎にする、、、などで催眠術映画もモーションを惹き起こせるのか。映画を考えるにつき面白いテーマではある。 |
「ショック集団(SHOCK CORRIDOR)」(1963) | 78 | 80 | 監督サミュエル・フラー撮影スタンリー・コルテス俳優ピーター・ブレック、コンスタンス・タワーズ、ジーン・エヴァンス ↓「地獄への挑戦」での『キャメラは決して映画の登場人物の視点には置かれませんね。』、が気になったのでサミュエル・フラーもう一本。 この作品には人物がキャメラを正面から見据えているショットはそれなりに撮られている。コンスタンス・タワーズがセミヌードで踊っている時に2ショット、潜入した記者ピーター・ブレックが悪夢にうなされて目を覚ますシーンその他数ショット、黒人の患者がプラカードを持って細長い廊下を行進する時に1ショット、その黒人が拘束着を着せられベッドで過去を語る時などにも数ショットキャメラを正面から見据えるショットが撮られている。しかしこのすべては相手が目の前に不在の状況であり、人物が向かい合っている時の切り返しでキャメラを正面から見据えているショットは1ショットも撮られていない。 「映画は戦場だ!」でインタビューをした人はよく見ている。 クローズアップが多い。 ある種の「精神分析」映画だが、精神分析は運動を停滞させる。これはヒッチコック論文の「起源」への探求で検討したが、サミュエル・フラーはこういう領域に切れ込んでゆく。 |
「地獄への挑戦(I SHOT JESSE JAMES)」(1949) | 50 | 70 | 監督サミュエル・フラー製作ロバート・L・リッパートプロダクション撮影アーネスト・ミラー俳優ジョン・アイアランド、プレストン・フォスター、バーバラ・ブリトン、 サミュエル・フラーの第一作目。 サミュエル・フラー自身この作品を「精神病理学的」と語り、『殺人者(ジョン・アイアランド)に自分の犯した罪を再び生きさせる』(A)、、『こいつは自分の病気を知ってるということだ』(B)、、と語っている(「映画は戦場だ!」159頁)。Aは「罪の意識」、Bは「起源への接近」、、ヒッチコック論文で検討した2つの要素が撮られているこの作品は運動が停滞している。 サミュエル・フラーのインタビュー集「映画は戦場だ!」の中で『「地獄への挑戦」には、あなたの映画が、その後一貫して踏襲することがあります。キャメラは決して映画の登場人物の視点には置かれませんね。』という質問に『そうだ、その撮り方は性に合わないんだ』と答えている(164頁)。「視点には置かれない」とはわかりづらい表現だが、人物の正面に置かれない、ということだろう。フラーはキャメラの動きと持続性を重要視しているので向かい合っている2人の人物の正面にキャメラを置くとキャメラが邪魔になり人物が動けなくなる。 この作品では人物がキャメラを正面から見据えているのは劇場の若い男の観客の2ショットだけであり、これは客席に座っていて動く前提を欠いた状況なので「動きやすさ」を前提とした議論からすればそれを逸脱してはいない。 |
「デンジャラスヒート/地獄の最前線 TINKLING or ' THE MADONNA AND DRAGON '(1989) |
80 | 78 | 監督サミュエル・フラー撮影アラン・ルヴァン俳優ジェニファー・ビールス、リュック・メランダ。、サミュエル・フラー。ダビングビデオでの鑑賞。 サミュエル・フラーの遺作となったテレビ映画。 遺作シリーズその2。「ジンクス(JINXED!)」(1982) で紹介した遺作たちと同様、『決して賞をもらえないこと』において見事に通底している。 マルコス政権におけるアキノ女子との選挙戦の陰謀を追いかけてゆくキャメラマンの物語を多くの実写と挿入して撮った「政治映画」だがちっとも政治的になるどころか最後は誘拐された子供救出事件へと展開しその子供が演説中のスパイをマシンガンで射殺、その射殺現場の写真を撮っているジェニファー・ビールスの写真が雑誌に載るという、余りにも映画的な自己言及の撮られたこの作品は、そのへんのインテリたちが間違っても食いつくことのできない「幼稚な」運動に終始している。 「幼稚な」とは始まりと終わり=「はしっこ」不在の「なか」のうごめきであり、まるでゴダールのアクションのように吃音的であり、「成功「快活」という「ほんとうらしさ」から余りにも距離を置いた跳梁である。 ジェニファー・ビールスが車で逃げようとオープンカーのドアを開けた瞬間、追いかけて来た民兵が勢い余って車のドアに頭から突っ込んで失神し、ジェニファー・ビールスがそのまま車に乗り込んで逃げてしまうという運動は、この余りにもくだらない出来事を当然のごとく受け容れたジェニファー・ビールスが驚きもせずそのまましなやかに車へ乗り込み去ってゆく運動が映画史に刻まれた瞬間である。 「しなやか」とは結果を意識しない行動であり結果が発生しても一喜一憂しない精神=スターである。 映画館で銃撃が始まった時、上映されているジェームズ・ギャグニーのギャング映画の銃撃戦の画面とほんものの銃撃戦とを内側から切り返して「対戦させる」という、この究極的に別々に撮られた内側からの切り返しは「映画は戦場だ!」と、とある映画の中でつぶやいたサミュエル・フラーの遺言である。。 |
「ジンクス(JINXED!)」(1982) | 82 | 80 | 監督ドン・シーゲル撮影ヴィルモス・ジグモンド俳優ベット・ミドラー、ケン・ウォール(ディーラー)、リップ・トーン(ギャンブラー) 女の私的な運動で「ファミリープロット」(1976)、死体との戯れで「ハリーの災難」(1956)といったヒッチコック的でありながら、運動は常習犯でヒッチコック的巻き込まれ映画ではない。ドン・シーゲルですらヒッチコック的動物を撮ることは困難。重要な分岐点は主人公がみずからの意志で何かをすることができているか、みずからのスキルを利用できたか、柔らかく(ふらふらに)なっているか、等。ベット・ミドラーは自殺した情夫を事故死に見せかけようとしていることに大きな意志を見ることができ、「巻き込まれ型」特有の「柔らかい身体」には届いていない。むしろ「ボディ・スナッチャー/恐怖の街<未>(1956)」のケヴィン・マッカーシー、「白い肌の異常な夜」(1971)のイーストウッド、「突破口」(1973)のウォルター・マッソーが巻き込まれ映画に接近しているかもしれない。ただ、ヒッチコック的巻き込まれ映画における「軽薄な女たらし」というキャラクターは難しいようだ。ドン・シーゲルも出演したイーストウッドの処女作「恐怖のメロディ(PLAY MISTY FOR ME)」(1971)はヒッチコック的巻き込まれ運動に接近している(そのものではない)。 ベット・ミドラーの取るに足らない私的なコメディはロバート・アルドリッチ「カリフォルニア・ドールス」(1981)、ヒッチコック「ファミリープロット」(1976)の女たちと通底している。間違ってもアホな批評家に食いつかれることのない「オンリー内部」によって遺作とする精神はジョン・フォード「荒野の女たち」(1965)、ハワード・ホークス「リオ・ロボ」(1970)、そしてジャン・ルノワール「捕えられた伍長」(1961)たちとも共鳴しモーションピクチャーの歴史に刻まれている。 ディーラー役のケン・ウォールは細微な仕草においてロバート・レッドフォードを大いに意識している。 |
鉄くず拾いの物語(2013) | 監督ダニス・タノヴィッチ WOWOW 「ノー・マンズ・ランド」(2001)の監督。懐かしい、、、けなした記憶アリ。 最初の子供たちの遊んでいるシークエンスで既に映画を放棄している。ショットの不在。 |
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私の大嫌いな弟へ ブラザー&シスター(2022仏) | 監督アルノー・デプレシャン WOWOW。10分で終了。 外部へ駆り立てる。心理的クローズアップ。視点の不在。キャメラを揺らす。なにもかもだめ。昔からこの監督は変わっていない。過大評価。 |
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風花(2000) | 84 | 86 | 監督相米慎二、撮影町田博、俳優小泉今日子。浅野忠信。鶴見辰吾。麻生久美子。柄本明。香山美子。高橋長英。2024.7.18。2回目。 富田ゆり子というピンサロ嬢にとって夫がすべてだった、彼女は夫が大好きだったのだ、と、相米慎二は撮り続けている。 出来事を因果的に進めるのではなく、そこから「逸れた」出来事のエモーションが何かを弾き、事態を転換させ、見ていた誰かによってその物語が語られる。 置き手紙に初めて書かれた「富田ゆり子」という文字。うっすらと影のかかったこの文字に書かれた名前は必ずや浅野忠信の口から「なまえ」として叫ばれるに違いないと確信を抱かせるに足りる文字として書かれている。 内側からの切り返し20回、外側からの切り返し15回。長回しが基本だが切り返しも撮られている。 回想がなければ100。 |
忠次旅日記(1927) | 70 | 90 | 監督伊藤大輔、俳優大河内伝次郎、沢蘭子、伏見直江。3回目。 運動が義理と人情、形式に閉じ込められている箇所がままある。 沢蘭子が酒場の大きな樽の陰から大河内伝次郎を呼ぶときの見つめ合い、ここはおおきく「ずれ」ている。内側からの切り返し、外側からの切り返しを混ぜながらリズムで撮られている。 こういう映画を見る時、昔の私は最初から「傑作」であることを前提に分かりもしないのに褒めていたが、今ではそうはしない。先入観は批評の敵。仮にこういう映画をけなしても、誠実でさえあれば決して映画を殺すことにはならない。分からずに褒める方が映画にとっては害。 「誠実さ」とは横から目線で映画を見て書くこと。「71点」とか点数を細かくつけるのは細かくつけることで自分に責任を負わせるため。逃げられないように細かく書く。 |
狂った一頁(1926) | 50 | 80 | 監督衣笠貞之助、撮影杉山公平、俳優井上正夫。3回目。 高速のフラッシュバックは入る。1ショット5秒、、それなりに早い。 用務員のクローズアップが余りにも多くそのどれもが「同じ写真」として撮られている。心理的であるがゆえに「同じ写真」になる。映画として凡庸。実験としては不明。 衣笠は28年、ソ連に一か月滞在しエイゼンシュテイン、プドフキンに会っているがこの作品は26年。「戦艦ポチョムキン」(1925)なり「母」(1926)を見てからこの作品を撮っているように見えるが「戦艦ポチョムキン」の公式の日本公開は1967年。どこで見たのか、、見ていないのか、、日本では26年にフラッシュバックの撮られたアベル・ガンス「鉄路の白薔薇」(1922仏)が公開されている。これは見ていると思われるが、、 |
孤独な声 ОЛИНОКИИ ГОЛОС УЕПОВЕКА)」(1978ソ連) |
90 | 90 | 監督アレクサンドル・ソクーロフ。撮影セルゲイ・ユリズジッキー 2024.7.8 2回目。 同じ大学の卒業制作でも「PASSION」(2008)なる子供の心理映画とは次元の違う大人の撮ったモーションピクチャー。 スローモーションが画面を停滞させないのは物語を引き延ばすのではなく物語を引き剝がしているから。 これをみた学友たちは映画監督を断念しただろう。それが倫理というものだ。 二番館①「アルファヴィル」からの引用がそのまま当てはまる。 |